Russia-2:2001.7.29〜2001.8.5
[旅程表]、[7/29] [7/30:(2)、(3)、(4)] [7/31] [8/1] [8/2] [8/3] [8/4、5]
7月30日(2日目) モスクワ市内観光
モーニングコールは、7時30分。今回の旅行はじめての朝食です。今朝は1階にあるレストランが朝食会場。出かけてみるとバイキング方式でした。メニューの量は多いようでしたが、あまり食べる気がしなかったので、パンと卵料理、ポテトを少々。卵の色は、日本で見慣れた黄色ではなく、ほとんど白でした。食後はコーヒー。だけど、このコーヒーがまた不味い。紅茶よりコーヒーの好きな私にはちょっと辛いかな?
食後、一旦部屋に戻って、出発の集合は、8:55に玄関でした。なかなかエレベータが来ず、やっと来たのに乗って降りると、ぎりぎりの時間でした。全員、そろったのを確認し、9時に出発。今日は、モスクワの市内観光です。
聖ワシリー聖堂
<ロシアといえば、この聖堂!!
が・・・、主塔は緑のネットの中でした。
(-_-;)残念>
真ん中に47mの高さのねぎ坊主が1本。その周を取り囲むように8本のねぎ坊主があります。それもシンメトリーではなく、バラバラに配置されています。真ん中の飛びぬけて高いのがキリストを象徴している。
この建物は、イワン雷帝がカザンのハーンを降したのを記念して、ポストニクスとバルマの二人に設計を命じたもので、出来あがった聖堂のあまりの美しさに、二度とこんな美しい建物が出来ない様に二人の設計者の目をくりぬいてしまったとか・・・。
聖堂の名前は、イワン雷帝に大きく影響を与えた修道士ワシリーにちなんで名づけられている。9つのねぎ坊主は、それぞれがひとつづつロシア正教の教会になっているとか・・・。
ロシアといえばこの聖堂ですよね。楽しみにして来たのにメインの塔は御覧のように緑色のネットの中でした。あ〜ぁ、残念。赤の広場からの眺めの方がよかったけど、午前中に来ると逆光になってしまって撮れないそうです。なので、道路を挟んだ駐車場から1枚。
赤の広場 クレムリンの北東の赤い城壁と、赤レンガ造りの国立歴史博物館、グム百貨店、ねぎ坊主のワシリー聖堂に囲まれた、石畳の美しい広場が赤の広場で、約73,000m2にもおよぶ広さをもちます。
広場に来ても、クレムリンの城壁と国立歴史博物館を除いて赤い所はありません。何故、ここが「赤の広場」と呼ばれるのか?それは、「赤」とは、ロシア語の古語で「美しい」を示す形容詞だったそうです。それまで雑然としていた地区を、17世紀に整理し、美しく模様変えした頃から、「美しい広場」つまり「赤の広場」と呼ばれるようになったそうです。
<これぞ!、「モスクワ」>
どこにでもこの構図をみると、その場所を連想させる場所がある。この赤の広場とワシリー聖堂の構図は、一目見ると、「モスクワ」という場所を連想させる有名な構図。
<赤の広場の石畳>
赤の広場の堆積土の厚さは約4m、約1世紀ごとに1m堆積していった。いまでこそ石畳に固められてしまったけれども、歴史のさまざまな人が足跡を残した、ロシア社会の変動の舞台となった場所。
レーニン廟 小型のピラミッドみたいなものがある。これが、ソ連を誕生させた革命家レーニンの墓所である。ソ連解体までは、レーニンは神聖にして犯すべからざる存在だった。トロツキー、スターリン、フルシチョフらが歴史の再評価を前にしてその名を否定されたにもかかわらず、つい最近まで、ただひとり、なんびとからも批判を受けることなかった。
警官や警備兵が警備を行っているが、聖地という雰囲気ではない。階段を下りると、ガラスの棺に安置されたレーニンの遺体がある。この遺体は死んだときのまま永遠に保存されるように、解剖学者と生化学者の3名により防腐作業が行われたそうだ。
右の四角い建物がレーニン廟です。後ろの丸い屋根を持つ建物は、ロシア連邦大統領府で、屋根の上には、ロシアの旗がひるがえっていました。
グム百貨店 赤の広場の北東にある長いビルがグム百貨店です。建物は、1890〜1893年に建てられたものを1953年に大修理した古いもの。中は吹き抜けになった3階建てで、1階と2階が商店になっている。1階の中央に噴水もある。今は8〜9割が外資系の商店でかつての国営デパートからイメージチェンジした。
まさか、こんなところでブランドショップを見るとは思わなかったのでビックリしました。買いたい人も居るだろうということで、自由時間となりました。少ない自由時間を買物に費やすもの嫌なので、赤の広場周辺を散策することにしました。
国立歴史博物館
赤の広場の北側にある。4つの塔をもつ赤レンガ造りの建物だが、もともとここにはロモノーソフによってモスクワ大学の小さな校舎が建てられていた。これを1875〜1881年に赤レンガの建物に建てかえたもの。
ロシア革命前のロシアの全歴史を展示し、石器時代のものからある。あまりにもたくさんの展示品があるが、イワン雷帝の衣装は見落とさないようにね。
グム百貨店を出て、ワシリー寺院の絵葉書を買いにいきました。小さい露店がたくさん百貨店の北側にありました。絵葉書とマトリョーシカがたくさん売ってありました。絵葉書を数枚購入し、赤の広場を北に歩いて行きました。
国立歴史博物館の横の道を抜けて行くと、モスクワの大目抜き通りであるトゥヴェルスカヤ通りに面する、マネージ広場に出ることが出来ました。この通りは、革命以前は、首都ペトログラード(現、サンクト・ペテルブルグ)とクレムリンを結ぶ重要幹線だったそうです。
広場の近くに公園を見つけました。近づいてみると、一般開放されてるようだったので入ってみました。そこが、アレクサンドロフスキー公園でした。
無名戦士の墓 アレクサンドロフスキー公園の中にありました。この公園の入り口には警備員さんが居て、数人はパスポートチェックされてました。
少し中に入ると、炎の灯っているものがありました。何かな?と思っていたのですが、これが無名戦士の墓でした。
黒色の花崗岩に「1941〜45年の無名戦没者の捧ぐ。汝の名は不明なるもその貢献は朽ちることなし。」と記されている。星型の中心には、永遠に消えることのない火がともされているそうです。
そういえば、フランスの凱旋門の下にも同じ様に、無名戦士の墓がありましたね。こちらも永遠に消えることなく炎が灯されてましたね。
<無名戦士の墓>
その側には、直立不動の警備の人がいました。 この付近には、何人か同じ様な人が居て、ある場所から中に入ろうとしてる人は注意されていました。
集合時間も近づいてきたので、再び、グム百貨店にもどりました。しかし、集合時間になっても数人は戻ってきませんでした。やっと戻ってきたかと思うと、その人が手に持っていたウォッカが中に入ったマトリョーシカを見て、他の人が買いに行ってしまうという具合。添乗員さんもそれを見て、注意する訳でもなし。結局、その人達が戻ってくるのを待って、赤の広場を後にしました。団体行動なんだから、子供じゃないんだから、いい大人が集合時間ぐらい守ろうやぁ・・って感じでしたね。この後もずっとこの調子だもんなぁ・・・。
バスに乗って、次の場所に移動、その後、昼食になるらしい・・・。
アルバート通り アルバート通りは、モスクワで若者に人気のある通りの一つで、幅20mぐらいの狭い通りが、歩行者天国になっている。通りの真ん中には、情緒のある街灯が続いている。
道沿いには、オープンカフェが並び、歩行者天国になった道の真ん中には、観光客目当てのお土産ショップがならんでいる。やはりメインは、マトリョーシカがメインの様な気がします。マトショーシカは、1つ1ドルの計算で5つ重なったものは約5ドル、10個のものは10ドルといったぐあいでした。
<にぎやかに人が行き交うアルバート通り>
<マトリョーシカの並ぶお土産屋さん>
ロシア連邦内閣ビル(ホワイト・ハウス) 短時間の自由時間後、再びバスに戻りました。この後、別の場所に移動して、やっと昼食です。今日の昼食は、ロシアの名物料理のボルシチでした。日本でボルシチといえば、濃厚なスープという感じでしたが、今回出てきたものは、そんな薄い赤キャベツスープという感じでした。でも、おいしかったですよ。
食後、再び観光にでかけました。バスの車窓から、下車しては観光しませんが、有名な建物の説明をうけました。いわゆる車窓観光というやつです。
一つ目は、新アルバート通りをモスクワ川に突き当たるところまで行くと、右手に白い建物がありました。これが、ロシア連邦内閣ビルです。1991年夏のクーデターのときにテレビでおなじみになった”ホワイト・ハウス”で、ロシア連邦の最高機関の建物です。
救世主キリスト教会 二つ目は、白い壁に金色の屋根とひときわ目立った建物の、救世主キリスト教会です。
1812年、アレクサンドル1世によってヴァラビョーヴィ丘に建設の予定だったが実現せず、1839年に子のニコライ1世が、女子修道院のあった場所に建てたのが最初のもの。設計者は、クレムリン大宮殿や武器庫を設計した人物と同じです。1883年に完成しました。高さが103.5mもあり、当時はモスクワ一の高さを誇り、収容人数も1万人というロシア一の大聖堂であったという。
しかし、革命後、宗教弾圧の対象になり、スターリンの命令により爆破された。その後、ソ連崩壊後、宗教復権を示すように再建が決まり、1997年に祭壇のあった場所に建物が竣工。教会は1999年に完成し観光も出来るようになったそうです。